昭和四十三年十二月九日 朝の御理解
御理解第三十六節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
御理解三十六節の最後の所、神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられると、神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。
お互いの、まだ心引かれる事だなぁと思いますね。誰でも直ぐにおかげが受けられるとおっしゃるのですから、ここんところを頂きたいですねえ。神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる。直ぐおかげの受けられる信心を頂きたいですねえ。
勿論直ぐ、おかげを受けられるという事は、本当におかげ頂いてよかったという事なんですよ。自分の心の中におかげを頂いてよかったと思う事なんです。
はあ、病気が今おかげを頂いた。この困った難儀な問題が今解決した。そうゆう意味での直ぐではなくてね、直ぐに直ぐおかげが受けられる、自分のおかげ心に感じるものなんです。直ぐおかげが受けられる、そのところにです、おかげを受けてよかった、自分の心の中におかげを感じる。成程手のひらをかやすようにおかげの色んな糸口がついたり、おかげを受ける事実も、そりゃございますよね。けれども直ぐ、直ぐおかげが受けられるというのは、私は心の上だと思うですね。
昨夜、久留米地区の教会の青年会の方達がここに集まりまして、初めての、ここでの初めての、久留米地区の青年信徒の信心共励会がございました。本当にあの、まぁきれいさっぱりとしている。七時半の時間でいくわけです。皆が集まっております。もう九時半にはすっぱり帰られます。これはもう合楽の御信者さん皆がひとつこういう見習わなきゃいけないと思うですね。
はぁもうなんか会ちいうたら九時も十時も頃から集まって来て十二時迄も、例えば信心共励をすると。成程共励はいいばってんやっぱりそういうねえ、それでもやっぱり七時半から九時半迄ですからね、二時間余りは共励が出来てますよ。すっきりしてますねえ。これなら本当に、あの、若い方達が集まって来ても、家でとやかく言われる事もなかろう、私は思うたですね。合楽でもこんな所を見習わせてもらわんならんと、ね。
例えばそういうような事が、例えば行じられると致しましょうか、はぁこれがよか、本当にこれがおかげを頂くと、もう、そう実行するとすぐに自分の心の中にこれがよかというように思うのです。あくる朝も眠くないしね。
その後に、私、ここで御祈念がありました後に、若い方達に対する、私が最近教祖のみ教え一点張りでいっておりますから、あの、教典を紐解きましても、若い者にと言うて下さっておりますみ教えはないですね。皆無では無いですけれども、み教えに「若い者は本心の柱に虫を入らせなよ」と、いったような、若い者をといったような言葉を使っておられるのは、これがもうあるくらいです。
けれどもこれはまあ年令的なものでばかりではないと、こう思うですね。信心の若い者、若い時に虫を入らせてはつまらん。信心が若い時に、もう初めからそこに虫を入らせてはいけないといったような響きもありますから、あながち若い者だけという意味じゃない。
けども私は本当にそうだなあと、こう思わせて頂いてから、この教典を紐解かせて頂き、あの、開かせて頂きましたらですね、あの、御理解八十節を頂くです。はあこれはもう私の発見でした。これはもう間違いなしに若い者に対する御理解だなあと思ったんです。
御理解八十節はですね、「年寄を大切にせよ」というのですよね。「年寄を敬え」と、「信心する者は、よう心掛けておくがよい」と。私は、この長い御理解の中のそこの所の言葉を拾うて、そこのところを皆さんに聞いてもろうたんです。信心の心掛けなんだ。もう教祖様ははっきりここに教えておられるのですから、これは年寄を大事にせよとおっしゃるから、若い者に言うておられる。年寄に言うておられるはずはないからね。これだけは若い者に間違いなしに教えておられる訳なんですよ。ですけれども若い者に対する信心の心掛けなのです、ね。ですからですね、こうゆう?????ところをです、はあ成程と合点がいくように、成程そうゆう御神意であろうと思われるように御理解下さるのですから、ほんにそうだと思うて年寄をより敬わせてもらい、より大切にさせてもらおうという気になればね、それを行じたらもう直ぐにおかげが受けられるのですよ。もう間違いないです。もう直ぐにおかげが受けられる。
それをですね、例えば、なら昨日四十七名かが、青年の方が集まっておりましたが、まぁ幾人、はぁほんにそうだなあと思うて帰って下さっただろうかと、私は思ったんですけれどもね。これは、もう間違いなしに若い者に対して下さっておるのですから、しかも本当にそうだなと合点がいくように御理解下さるのですから、それを私は直ぐにそれを素直に、直ぐに真っすぐにそれを頂かにゃいかんです、理屈なしに。
それを行ずりゃですね、はぁほんなこと、こげん有難い事ならもちっとはよぉ大切にすればよかった、尊べばよかったとゆうようなおかげが受けられる。直ぐに受けられるです。それを何とかかんとか理屈を言うたり、それをうわの空のようにして聞いたり、それを行じようともしなかったんではです、今日私が言う、直ぐにおかげが受けられるというおかげに繋がらない。
今度植樹の事、いわゆる造園の事がこうして話が、まぁ燃え上がったというか、その時期が来たというか、このように段々おかげを頂いてきた。あの時の確かに、お月次祭の後の御理解にですね、御用という事について頂いた。御用というのは神様の手になり足になりということだという事を頂いたでしょう。神様の手になり足になろうという、それが御用なのだと。神様がどんしようごとなさらんとにこちらがいくら一生懸命さしてもらったっちゃそれは御用にならん。ね、御用とはおんようと書いてある。自分の用なら御の字をつける事はいらんじゃないか。これはもう間違いなしに神様は今度の造園の事については神様が立ち上がんなさった。ところが神様には手もなからなければ足もない。そこで氏子が本気で手にもなろう足にもなろう。神様はお金を持ってござる訳でもないから、そのお金も氏子が出させて頂こう。手をもってござる訳じゃないから手にもならせてもらおう、足にもならせてもらおうと。いうなら神様の力にならせて頂こうと、それが本当の御用だという事を噛んで含めるように御用の精神を頂きましたですよね、皆さん。
朝参りをしよる、お月次祭たんびに参りよる。お話は毎日頂きよる。けれどもどうしてこんなにこんなに素晴らしい、直ぐに合点のいくようなお話を頂いても、それを直ぐに頂こうをする態勢にお互いがならんのだろうかと、私は思う。御用に出てくる者はきまとっる。ほおこれはりっぱになったたいち言うようなこと。何とかかんとか口実を言うちゃ出てこん。そしておかげが頂きたい。何が気にいらんらなら出てこんとかと言いたいごとある。
神信心もこの一心をだすと直ぐおかげが受けられる。御理解を頂いて成程そうだなあと。はあ御用というのは、例えば本当にそれを御用と言うのであろうと、例えば分かったらです、分かった事を直ぐに、それを行の上に現わさして頂こうという一心なんだ。
その一心をだすと、その一心をだすと直ぐにおかげが受けられる。はあ一日御用にお使い回しを頂いて、おかげを頂いたと心に感じる。それもただですよ、あげなこつのありよるけんでお手伝いに行こうちゅうたる御用じゃいっちょんならん。いわゆる真心なんです。本気で神様の手になろう足になろうというような心なんです。そういう心で御用させてもらうなら、しかも神様が立ち上がってござる、神様の手に足にならせて頂こうという気になりゃ絶対なんだ。その絶対のおかげの受けられるような事を疎かにしておかげの受けられるはずがないじゃないか。そしておかげだけは受けたい。???でてくれば。何なっとんさしてもらおうと、教会を挙げての御用。いうなら神様が立ち上がってござってからの御用。それこそおかげが受けたいのであるから、もう私は一遍出たけん二偏出られんというのではなくてです、何をおいてでもです、その御用に、例えば馳せ参ずるというのが本当の御用なんだ。もう絶対に間違いのない、大地を叩くように間違いがないおかげの受けられる道を教えて下さっても、それを行じようとする、私は意欲がないならば、直ぐにおかげが受けられるというようなおかげに繋がらんと思う。
これは私自信がこうして御理解を説かせて頂きながら、私自身が本当にそうだなぁと、これは大発見だと、例えば私が思わして頂いて、私自身が頂きよる御理解ですから、皆さんもはぁほんなこつと、例えば思いなさったらです、それを行じて御覧なさい。そこから直ぐにおかげが受けられます。それがつとめてからであったり、しようことなしのようなものであって、それではおかげが受けられるはずはありませんよ。信心は頭(ず)からいかにゃいけません。
まるっきり御用に出て来よる者は暇人が出て来よるごたる。決してそんなこつじゃない。それけんと言うて、おかげ頂きたいけんち言うていきよるとでもない。言うなら真心なんだ。いかに教えを頂いても、いかに御理解を頂いても、それがもう聞くばっかりじゃなんにもならん。
昨夜青年会の方達に、私が申しましたように、はあ若い方達に対する御教えというのは本当に無いなあと思いよったけれども、昨日初めて気付かさせて頂いた。「年寄を大事にせよ」と、こうおっしゃる、というあの御教えです、頂いて、はぁこれはもう確かに若い者に下さっておる御教えだなあと私は思うて、その事を聞いてもらった。説いておる私が、はあ大発見だと思うて教えの中の発見だと思うて、私は説かしてもらいよるけれども、聞いておる者がはぁーほんなこつという風な風で頂かなかったら、やっぱそれまで。私がどんなに噛んで含めるように皆さんに様々に日々御理解を聞いてもろうても、はぁそうだなあと成程と皆さんが聞きなさらなければ、せんに及ばん。
その一心を出すと直ぐにおかげが受けられる。本当にそうならせて頂こう、これからはという一心を出させてもらう。それは、なら今日私は、「御用」と「年寄を大切にせよ」という事についての事を申しましたが、その事だけの事じゃない。日々頂くその御理解をです、直ぐにおかげの頂けれるという事はです、例えば本当に、この事に一日、この事に取組ませて頂いたら、本当におかげを頂いてよかったと、これはもう絶対そのおかげが心の上に現れてくるのですよ。その事が、私は直ぐにおかげとおっしゃるのは、その事だと私は思う。
とりわけ、今ここでは造園、例えばそんなら時間励行の事でもそうです。お互いが汽車にでん乗るごたるつもりで時間励行しなさいて。一分間遅れたっちゃ乗り損なうよと。私が言うたら、はぁほんにそうだと思うたら、月次祭なら月次祭にでもです、ね、汽車の時間に乗ろうごたる気持ちで、例えばあれも早く、それはもうほうからかしといて、さあ行こう、早よ行こうと言うてお参りしてごらん。もうはあ本当に一番初めからお月次祭を頂いて、おかげ頂いたと、直ぐにおかげの受けられる。そこから道が開けてくるて。
時間励行だけの事じゃない。もう本当に直ぐにおかげの頂けれる道がいくらもある。それを疎かにする。それは実際は、本当に難しい出来ない事もある。けれども、やろうと思やあ直ぐに、言わば実行の出来るような事をなおざりにする。だから何時までもおかげが受けられん。あまりにも平易な事、あまりにも簡単な事がです、私は疎かにされておりゃせんかじゃない、おるという事をです、お互いがもう一遍再認識しておかげ頂かにゃいけません。
さあ御本部参拝、旅費を払わにゃならん事は分かっとるじゃないか。言わにゃ持っちゃ来ん。そげなこつで直ぐにおかげの受けられるはずがなか。拾何万円ここが立て替えて払わにゃならん。もし出来とらんなら、出来ませんから後から払いますからと言やぁまだこちらの方が可愛らしかばってんが、当たり前んごと思うとる。そげなねえ、もうそうゆう信心は本当に合楽では卒業させてもらわにゃです、直ぐにおかげの受けられる道に繋がらんて。直ぐに出来る事でしょうが。何時まで経っても幼稚園、ね。それでは、私は何の為に信心の稽古を、こう日々こうやってさして頂きよるか分からん。
そしてやむにやまれんおかげを頂きたいという、その念だけは燃やすなら、燃やすように直ぐに行の上にでも現わす事の出来るような事を直ぐに一つ一つ改めていくようなおかげ。はぁ成程そうだと合点がいく事であったなら、はぁこれこそ発見と思うようなものをそこに発見したなら、それを行動するような喜びを以て、その事を頂かしてもらう、私はこの斬新な信心意欲とでももうしましょうか、そうゆうものをです、例えば今度の御用なら御用という事に対する、あの御理解を頂いておったら、とても邪魔になったっちゃ、ちょいと神様の手になろう足にでんならして頂こうと、泥ひとすくいでんすくわせて頂こうと、お茶沸かしなっとんやらしてもらおうと。出来るならお茶受けのいっちょん作っていこうと。その位な気持ちがお互いなからにゃおかげ頂かれんですばい、本当。
皆さんそうゆう一心を出してね、そうゆう一心を出して、ひとつ直ぐにおかげの頂かれる道がそこにあるのだから、私はそれを行の上に表しておいでられなければ、どんなに素晴らしい信心が出来よるようにあっても、肝腎要の、たったそん位の事が出来ん位の事で、私はおかげの頂けれるはずはなか、という風にですね、私は最近のこの植樹の事についての御用がいつも顔ぶれが同じ事、その中から感ずるのです。
はあ御用という事は、こうゆう事だというような事を頂いておっても、その御用はせんでから、神様だけは御用させようと思うとるたい。おかげ頂きたいちいうのは。そうじゃろうが。そして何とかかんとか都合のええ事ばっかり言う。それじゃ神様も又都合のよかことばっかり言うて右左と、私はおかげの方も狂うてくると思う。
例えばねえ、そうさして頂こうと思うても体が言うことをきかんというような難しい事もある。そうゆう事はまあ出来んなら出来んに致しましても、心掛ければ、教えて頂いた事を直ぐ守れる事はいくらもある。
そうゆうようなところからです、私は本気で自分のものにしていく私は、信心。それが御教えに忠実であるという事は、そうゆう意味の事であると、私は思う。
教えられた事に対して、それも合点がいかんなら仕方がない。けれども合点がそうだと、こう分かったら分かりすぎる位分かっておるとじゃろうが、皆さんの場合。分かりすぎる位分かっておるところを簡単な事であるから本気で行の上に表していこうと。そうゆう一心を一つ皆さん出して頂きたいと思うですね。どうぞ。